2009年01月15日

●命日の墓参り

今日は父親の命日ということで墓参りに行ってきました。
母親から年末に行くように言われていたのですが、新年に延ばしたら雪が降って行けなくなって、このままだとズルズル延ばしになることになるので今日、1人で行くことにしました。
野田山は市街地より積雪が多く、自動車の通り道が埋もれているのはもちろん、人間が通る道さえなくて、幹線道路のところの駐車場から、足跡も無い30cmのふかふかの雪の部分が半分以上の道を吹雪の中を歩いて行きました。
花が置かれている墓もちらほらありました。なんとか墓までたどりついて、新しい花を入れて、蝋燭と線香を供えてお参りしてきました。年末に弟が置いてきた花もまだ生き生きとしてました。冬の時期は花が長持ちするんです。
こんな日でも野田山墓地の近く(大乗寺の入口)のお店には花を用意してありました。
ちなみに、金沢の浄土真宗では年末や年始に墓参りする風習は無いそうです。そりゃそうですよね。雪の中、墓にたどりつくことすら大変ですもの。

2009年01月10日

●3回忌

今日は父親の3回忌でした。金沢では3回忌は、親戚とか呼ばないということなので、家族だけ集まってお坊さんにお経をあげていただきました。
四十九日も一周忌も外でやったので、全てお任せだったので今回初めて自分たちで用意しなければいけませんでした。
お坊さん用の紫の座布団を購入し、花を買ってきて、赤い蝋燭を灯し、香炉の火タネの有無を確認して、お坊さんに出すお菓子を用意して、南無阿弥陀仏の掛け軸をかけました。打敷は艶やかなほうを出しておきました。家族だけといっても礼服は着用しました。
列席者にまわす香炉は父親が亡くなった時に葬儀社が持ってきた白い香炉を使ったのですが、白い香炉は四十九日までしか使わないということでした。その他に三具足の位置や大きさ、上卓の配置など、いろいろ間違っていたみたいです。
食事は特に用意しませんでした。一般的には食事料と交通費とお布施をわけて出すようですが、まとめてお布施として三万円包みました。

2009年01月06日

●お通夜

今日、お世話になった大切な方のお通夜がありました。急死でびっくりしました。おくやみにでていた住所の町名はご本人と一緒だったのですが、信じられなくて、昔に来ていた年賀状で確認したら住所と家族の名前が一緒だした。
お通夜に行ってきたのですが花篭がいっぱいでした。ちょっと早めに会場に着いたのですが、遺族が会場に入られたのは30分前でした。国際的な活動をしていた人だったので、地元の人以外の列席が多いせいもあったのですが、通夜が始まる前に焼香と遺族との挨拶をすますようにというアナウンスがありました。金沢のお通夜では、先に焼香と挨拶をするのは一般的な風習ですが、本来は好ましくない風習だと聞いていたので、そういうアナウンスがあったのには驚きました。
お通夜が終わった帰る時にお菓子が配られました。
先日も、そういうお通夜がありましたが、両方とも葬儀社はサンレーでした。

2008年12月08日

●親戚の葬儀

親戚の人が亡くなられたと連絡がありました。母親の姉妹(亡くなっている)の長男(家督を継いでいる)の妻にあたる人になります。病気で1ヶ月以上前から危ないと言われていたので母親はなるべく他の予定を入れないようにはしていたようです。
朝に他の親戚から電話が入って、香典の金額とか花や籠をどうするかの相談をしてました。
こういう場合は血のつながりの強さというものも関係しているようで、甥の妻の場合は直接血がつながっていないので香典は2万円で菓子籠の供物を出すということになったようです。

お通夜は、集会場で行われて座敷の部屋で入れない人がいるほどで、ギューギュー詰めになっていました。列席者はかなり狭くてきつそうでした。
白山麓の通夜はお坊さんは1人というのが多いようです。でも告別式には白山麓の僧侶が勢ぞろいするそうです。白山麓の人はお経をあげられる人が多く阿弥陀経もみんなで唱和していました。
親戚の通夜だったので、通夜が終わっても少し残っていたのですが、大勢の人が残っていました。
飲み物や、乾き菓子や、惣菜や、巻き寿司が出されました。

叔母さんの時には会計の手伝いもしたのですが、今回は早めに帰りました。

2008年12月07日

●父親の3周忌の打ち合わせ

父親が亡くなって1月15日に2年になるということで、3周忌の法要をしなければいけません。親戚に聞いたら3周忌は、それほど大げさにする必要は無く、自宅で家族だけ集まってお経だけあげてもらえば良いということなので、そのようにすることにしました。
先月、ほんこさん(報恩講)が終わった時期が良いかと思って20日くらいの朝にお寺に電話したのですが、そのお寺は檀家が多く、ほんこさん(報恩講)で12月まで周っているということで住職が不在でした。お寺から改めて電話してもらえるということだったので待っていたのですが連絡が無く、改めて電話しました。
1月11,12日の連休は不都合ということで父親の3周忌を10日(土)の午前中にすることにしました。

2008年11月21日

●納棺夫日記

金沢東別院の公開講座の最終回は行きませんでした。そのかわり行きそびれた2回目の講師の著書「納棺夫日記」を読みました。納棺夫で体験した事を書かれているのかと思っていたのですが、そういう内容はごく一部で、ほとんどが作者である青木新門氏の浄土真宗論って感じの本でした。

この本でも、そうなんですが、浄土真宗の講座や法話とかを聞いていると、浄土真宗にとって一番大切な事って死に対する不安と、生きることの不安を感じる必要がないというのが本質のような気がします。極端な話、生きている時に殺人や、その他に一般的に悪いと考えられている事をしても、死ぬとみんな阿弥陀様のお導きによって仏に帰るので、なんの不安も感じなくても良いですよということのようです。
生きている時に、一般的な考え方から考えられる不満や不安、諦めは仏法とは全然違う価値観によってもたらされるものなので、悲観することは無いですよ。生きていく(生かされている)事自体に意味があるので、生かされることに対して感謝の気持ちを持ち続けなさいっていう事のようです。生きていく上で、一般に悪いと言われることを、しなければ生きていけない事に遭遇するかもしれないけど、それも与えられた人生でもあり、仏法の価値観の中では意味がないことなので、くよくよすることなく安らかな気持ちで生きていけば良いですよという話が多いです。

浄土真宗の場合は死ぬとみんな仏になるので、本来、浄土真宗には死者を弔うという意味では法要は必要ないのでしょうけど、法要を無くしちゃうとお寺の収入が無くなり、お寺が存続できなくなっちゃうので法要をやっているんだろうなあって思う。まあ法要することによって、法話を聞いたり、死について考える機会ができるということで親鸞の教えに触れさせることが出来ると意味でも大切だというのが大義名分だと思うのですけど。まあ金沢の町並みにとって寺院というのは重要な位置を占めるので寺院を存続させる事の重要性は否定しないのですが。

まあ、そんなことを考えさせられる今日この頃です。
親の法要はできるかぎりのことはしてあげようと思うけど(親はそれを望んでいると思うし)、自分が死んだら無宗教で簡素な葬儀をしてもらうように遺言を書いておこうと思います。
そのためにも、葬儀のことを、いろいろ調べようと思ってます。

2008年11月16日

●ほんこさん(報恩講)

今日、ほんこさん(報恩講)がありました。仏壇に飾る丸餅と花と赤い蝋燭と赤い打敷を用意しました。

最初に正信偈を少し長めのを唱和しました。それで報恩講は終わりました。

その後で、月命日をするということで、蝋燭を白いのに交換して、別のお経をお坊さんひとりで唱えました。報恩講と月命日は一緒くたにするのかと思っていたのでびっくりしました。

お布施1万円と、寺の維持費6千円(年額)を包んだのですが、月命日とほんこさんは別ということなので、月命日の分の御布施2千円を別に包みました。ほんこさんの食事代は別に包まないでも良いと母親が知人から聞いたらしく包みませんでした。

打敷を卓のてっぺんに敷いておいたのですが、打敷は卓と天板の間に敷くのですよと教えていただきました。打敷を卓のてっぺんに置いてその上に蝋燭置いたのでは確かに危ないですものね

お餅は少し多めに買っておいて夕食にお雑煮をしました。

2008年11月05日

●真宗大谷派の市民公開講座

今日、真宗大谷派金沢教区主催の市民公開講座に行ってきました。金沢東別院で行われて無料でした。「南無阿弥陀仏の葬儀」という内容で4回行われ今回は3回目でした。今日は医師が講師で、医学から見た生きるということと死ぬということがテーマでした。1時間30分の講座でした。

今日は食事が遅くなって、慌てて家を飛び出して、メモ用紙と財布を忘れて行ってしまいました。

医学は生老病死の四苦のうち、生と老病死を分断し、生は善、老病死は悪と考えるから労病死の対応ができない。生きる意味を考える上でで世間的に幸せになるという基準で考え、老病死をマイナス条件という基準で考えるので人間の一生は不幸の完成という見方しかできなくなる。
医療というものは老病死の問題について治療によって先延ばしはできるけど、根本的な解決はできない。
ある年齢になると、健康で長生きというより成仏という仏教的な考えをすることの必要性がある。死ぬことを心配して生きるより鷹揚に生きるのが良いのだけれど理性・知性・分別を基準に考えると老病死を否定する考え方しかできないので、なかなかそのような生き方ができない。
客観的事実に基づいた現代の医学では一断面しか見ることができなく、仏教的な視点による物語に基づいた医学により死んで行く事を受け取る文化が求められている。

人間として生まれた意味は現代の理性・知性・分別に基づいた考え方では理解できない。仏法的な考え方により、仏様に対してあまりにも小さい自分の愚かさに気づき人間に生まれてよかったという境地になることができる。仏法と関わることにより、死んでいくことはなんの心配もない、つまり死んでいくことは浄土に帰るという事に気づくことになる。死んだことで浄土に導いてくれる阿弥陀様に対するお礼が南無阿弥陀仏である。
清く正しくでは生きていけない先祖の過酷な人生があったなかでも阿弥陀如来の救いで生き延びてきて、自分達が生を得られたことに対する自覚の深さによって過去・未来の本当の意味が見えてくる。

仏教については理性・知性・分別による客観化した考え方では理解できない。仏は私人より遥かに大きい存在なので、疑いの目で見て理解しようとしても理解できない。

おおまかには、このような内容でした。


2008年11月02日

●ほんこさん(報恩講)の準備

自宅のほんこさん(報恩講)が11月15日に行われるので、仏壇の掃除をして、打敷(赤と金の模様の)を出しておきました。

2008年10月26日

●親戚の1周忌

今日、親戚の1周忌の法要がありました。
礼服を着て、お供えの果物を持っていきました。今日の1周忌は食事はでなくて、引き出物も寿司折だけだということを聞いていました。
着くのが早くなったので法事に行く前に1周忌の親戚の墓参りをしました。
仏壇に赤い蝋燭と赤と金の鮮やかな色の打敷を使ってました。同じ浄土真宗でも本願寺派の場合は、3回忌までは白蝋燭と白の打敷を使うのが一般的のようですが、真宗大谷派の場合は赤い蝋燭と赤と金の鮮やかな色の打敷を使用するようです。
食事が出て、引き出物がある場合は1人1万円が一般的のようですが、こういう法要の場合の仏前にいくら包めば良いのか判断が難しかったので、他の親戚と随分相談して、1人の場合は3千円、2人で行く世帯は5千円ということにしました。黄色と白の紐のついた仏前と書かれた袋に入れていきました。
県外から来た親戚もいて、せっかく遠くから来たのにゆっくりできなかったという面もあったのですが、法事ってこういう形式で充分だと思いました。法事に出る側にしても、それなりに包まないといけないので、それなりに負担になる訳だし、質素な法事というのは出席する側にとっても優しい法事と言えます。
要は亡くなった人に対する思いがどうかという事なので、心さえこもっていればそれが一番ですから。
帰りに、親戚がお供えしたお菓子が分けられ、いただいて帰りました。