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2008年11月05日

●真宗大谷派の市民公開講座

今日、真宗大谷派金沢教区主催の市民公開講座に行ってきました。金沢東別院で行われて無料でした。「南無阿弥陀仏の葬儀」という内容で4回行われ今回は3回目でした。今日は医師が講師で、医学から見た生きるということと死ぬということがテーマでした。1時間30分の講座でした。

今日は食事が遅くなって、慌てて家を飛び出して、メモ用紙と財布を忘れて行ってしまいました。

医学は生老病死の四苦のうち、生と老病死を分断し、生は善、老病死は悪と考えるから労病死の対応ができない。生きる意味を考える上でで世間的に幸せになるという基準で考え、老病死をマイナス条件という基準で考えるので人間の一生は不幸の完成という見方しかできなくなる。
医療というものは老病死の問題について治療によって先延ばしはできるけど、根本的な解決はできない。
ある年齢になると、健康で長生きというより成仏という仏教的な考えをすることの必要性がある。死ぬことを心配して生きるより鷹揚に生きるのが良いのだけれど理性・知性・分別を基準に考えると老病死を否定する考え方しかできないので、なかなかそのような生き方ができない。
客観的事実に基づいた現代の医学では一断面しか見ることができなく、仏教的な視点による物語に基づいた医学により死んで行く事を受け取る文化が求められている。

人間として生まれた意味は現代の理性・知性・分別に基づいた考え方では理解できない。仏法的な考え方により、仏様に対してあまりにも小さい自分の愚かさに気づき人間に生まれてよかったという境地になることができる。仏法と関わることにより、死んでいくことはなんの心配もない、つまり死んでいくことは浄土に帰るという事に気づくことになる。死んだことで浄土に導いてくれる阿弥陀様に対するお礼が南無阿弥陀仏である。
清く正しくでは生きていけない先祖の過酷な人生があったなかでも阿弥陀如来の救いで生き延びてきて、自分達が生を得られたことに対する自覚の深さによって過去・未来の本当の意味が見えてくる。

仏教については理性・知性・分別による客観化した考え方では理解できない。仏は私人より遥かに大きい存在なので、疑いの目で見て理解しようとしても理解できない。

おおまかには、このような内容でした。


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